魔法の手
例えば江利子が令に出会っていなかったら、
例えば祥子が祐巳のタイを直していなかったら、
そして、江利子と祐巳が出会ってしまったら、
そんな話。
例えば祥子が祐巳のタイを直していなかったら、
そして、江利子と祐巳が出会ってしまったら、
そんな話。
今日もまたつまらない一日が始まるんだろうな、と思っていた。
私は妹を持っていなかったし妹がいたところでこの気持ちが解消されるはずもなく、朝から盛大に溜め息をついた。
こんなところを親友に見られでもしたら、朝からたるんでるわよと言われかねなかったが私は誰もいない薔薇の館で一人紅茶を飲んでいたので、もちろんそんなことにはならなかった。
そろそろ授業が始まる時間だ。
めんどくさいと思いながらもカップを下げて、教室へ向かった。
空は相変わらず青くて、雲は相変わらず白くて、銀杏並木は相変わらず緑色に生い茂っていた。
「つまらない」
変わらない日常。
劇的な変化を求めても結局私はそこで私が出来ることをこなしていくだけだった。山百合会に入ったときもそうだった。ここなら私の心を躍らせてくれる何かがあると思ったから入ったのに、結局何も変わりはしなかった。
「つまらない!」
二度目は叫ぶように。
もしかしたら誰かに聞かれたかもしれないがそんなのはまさにどうでもいいことだ。黄薔薇様と知って私に文句を言ってくる子はいなかったし、とりあえず叫びでもしないと気が晴れなかったからだ。
「どうしたんですか?」
気分が晴れたと思ったのに水を差す言葉を誰かがかける。
ほっといてくれればいいのに。どうせ私を満足させる人間なんてこの学校にはいないのだから。
「別になんでもないのよ」
自分でもおかしくなるような愛想笑いを浮かべて振り向いた先に、まあ私の人生を変える子が立っていたわけだ。
別に容姿が優れているわけではない。
別に頭が良さそうなわけではない。
別に運動が出来そうなわけではない。
そんな普通と言っていい生徒なのに、私は目を離すことができなかった。なぜだろう、なんて自問自答するまでもない。
私の長年の勘が告げていたのだ。
この子は私を楽しませてくれる、と。
「あなた名前は?」
「へっ?」
しまりのない顔をさらに緩ませてその子は間抜けな顔をした。
「自己紹介をして、って意味だけど」
「あっ。私、福沢祐巳って言います」
福沢祐巳。
名前まで平凡な子だな、と思った。
「私は鳥居江利子。一応黄薔薇様をやらせてもらっているんだけど?」
知っているよね、という含みを持たせて聞くと祐巳は一瞬呆然となった後、まるで寝坊寸前の子供を起こす目覚まし時計のように大声を上げて驚いていた。
「えー」
「あなた、もしかして私を知らなかったの?」
未だに驚いていて声が出ないのか、何度も首を立てに振った。私にはむしろそっちの方が驚きだった。この学園で薔薇様と言えば知らない人はほぼいないだろう。それなのに知らないとは。
「そうとうは知らず、すみません」
そして、ようやく驚きから解放されたのか何度も頭を下げて祐巳は謝っていた。だけど私にとってそんなことまるで問題ではなくて、私の勘が告げた生徒がまったく私のことを知らないなんて、
こんな、
こんな面白いことがあるのだろうか。
そして、私はそんな祐巳を見て知らず知らずに笑っていた。お腹を押さえて、声を上げて、人目も憚らずに。
「どうしたんですか?」
突然笑い出した私を祐巳は不思議そうに眺めていた。
それはそうだ。
祐巳は必死に謝っていたのに、私は笑っているのだから。
「あなたが面白くて」
くくっ、と何とか声を搾り出して答えた。
「そんなぁー。ひどいですよ。私は必死に謝ってるんですから」
笑いながらも私はこの場がどうすればもっと面白くなるかを考えていた。そして、思いついた最高のアイデアを私は実行せずにはいられなかった。
もっともこれを実行しようと思ったのは、ただ単に面白くするだけではなかったけど、そんなことは今言った所でどうしようもない話。
「あなたお姉さまいて?」
「いいえ、いませんけど?」
祐巳はなぜそんなことを聞くのだろうと疑問符を頭に浮かべながら答える。少し頭を働かせればこの状況で私が姉の有無を聞く理由なんて一つしかなさそうなものなのに、この少女はそんなことだとはこれっぽっちも思っていないのだ。
だから、私は祐巳がまったく予想もしていないだろう言葉をかける。
「祐巳、私のスールになりなさい」
祐巳は私の言葉を五秒間咀嚼して、ようやく本日二度目の叫び声を上げるのだった。
「私が、ですか」
「他に誰がいるのよ。あなたの後ろにあなたと同名の透明人間でもいるなら話はまた変わってくるのだけど」
馬鹿正直に祐巳はわざわざ後ろを向いて、誰もいないかどうかを確かめている。
「誰もいないわよ」
「でも、どうして私なんですか?」
「理由? そうね、敢えて言うならあなたがとても面白いから。後は勘かな」
祐巳は上を向いたり、手をいじってみたりと、どうやって断ろうか考えてるみたいだった。
でも、私が一度狙った獲物を逃すわけがない。
絶対にスールにしてみせる。
「あの!」
「そうだ」
ようやく決意して発した言葉を遮って私は言った。祐巳がその事を忘れているみたいだったから、早いうちに話してあげたほうがいいと思ったからだった。
なんて優しいんだろう。
「もう授業始まるわよ?」
「え? あっ」
「そうね。返事はまた今度でいいから、とりあえず早く教室に行きましょうか?」
私は祐巳に手を差し出した。
祐巳はその手をとろうか迷った挙句、恐る恐る手を伸ばしてきた。私はその手を無理やり引っ張ると、乙女の嗜みなんてまるで無視して走り出した。
「早いですよー」
「授業遅れたくないでしょ」
私は走りながら絶対にこの子を離したくないと思っていた。そして、この手は私をこの日常から抜け出してくれる魔法の手だと確信していた。
私は妹を持っていなかったし妹がいたところでこの気持ちが解消されるはずもなく、朝から盛大に溜め息をついた。
こんなところを親友に見られでもしたら、朝からたるんでるわよと言われかねなかったが私は誰もいない薔薇の館で一人紅茶を飲んでいたので、もちろんそんなことにはならなかった。
そろそろ授業が始まる時間だ。
めんどくさいと思いながらもカップを下げて、教室へ向かった。
空は相変わらず青くて、雲は相変わらず白くて、銀杏並木は相変わらず緑色に生い茂っていた。
「つまらない」
変わらない日常。
劇的な変化を求めても結局私はそこで私が出来ることをこなしていくだけだった。山百合会に入ったときもそうだった。ここなら私の心を躍らせてくれる何かがあると思ったから入ったのに、結局何も変わりはしなかった。
「つまらない!」
二度目は叫ぶように。
もしかしたら誰かに聞かれたかもしれないがそんなのはまさにどうでもいいことだ。黄薔薇様と知って私に文句を言ってくる子はいなかったし、とりあえず叫びでもしないと気が晴れなかったからだ。
「どうしたんですか?」
気分が晴れたと思ったのに水を差す言葉を誰かがかける。
ほっといてくれればいいのに。どうせ私を満足させる人間なんてこの学校にはいないのだから。
「別になんでもないのよ」
自分でもおかしくなるような愛想笑いを浮かべて振り向いた先に、まあ私の人生を変える子が立っていたわけだ。
別に容姿が優れているわけではない。
別に頭が良さそうなわけではない。
別に運動が出来そうなわけではない。
そんな普通と言っていい生徒なのに、私は目を離すことができなかった。なぜだろう、なんて自問自答するまでもない。
私の長年の勘が告げていたのだ。
この子は私を楽しませてくれる、と。
「あなた名前は?」
「へっ?」
しまりのない顔をさらに緩ませてその子は間抜けな顔をした。
「自己紹介をして、って意味だけど」
「あっ。私、福沢祐巳って言います」
福沢祐巳。
名前まで平凡な子だな、と思った。
「私は鳥居江利子。一応黄薔薇様をやらせてもらっているんだけど?」
知っているよね、という含みを持たせて聞くと祐巳は一瞬呆然となった後、まるで寝坊寸前の子供を起こす目覚まし時計のように大声を上げて驚いていた。
「えー」
「あなた、もしかして私を知らなかったの?」
未だに驚いていて声が出ないのか、何度も首を立てに振った。私にはむしろそっちの方が驚きだった。この学園で薔薇様と言えば知らない人はほぼいないだろう。それなのに知らないとは。
「そうとうは知らず、すみません」
そして、ようやく驚きから解放されたのか何度も頭を下げて祐巳は謝っていた。だけど私にとってそんなことまるで問題ではなくて、私の勘が告げた生徒がまったく私のことを知らないなんて、
こんな、
こんな面白いことがあるのだろうか。
そして、私はそんな祐巳を見て知らず知らずに笑っていた。お腹を押さえて、声を上げて、人目も憚らずに。
「どうしたんですか?」
突然笑い出した私を祐巳は不思議そうに眺めていた。
それはそうだ。
祐巳は必死に謝っていたのに、私は笑っているのだから。
「あなたが面白くて」
くくっ、と何とか声を搾り出して答えた。
「そんなぁー。ひどいですよ。私は必死に謝ってるんですから」
笑いながらも私はこの場がどうすればもっと面白くなるかを考えていた。そして、思いついた最高のアイデアを私は実行せずにはいられなかった。
もっともこれを実行しようと思ったのは、ただ単に面白くするだけではなかったけど、そんなことは今言った所でどうしようもない話。
「あなたお姉さまいて?」
「いいえ、いませんけど?」
祐巳はなぜそんなことを聞くのだろうと疑問符を頭に浮かべながら答える。少し頭を働かせればこの状況で私が姉の有無を聞く理由なんて一つしかなさそうなものなのに、この少女はそんなことだとはこれっぽっちも思っていないのだ。
だから、私は祐巳がまったく予想もしていないだろう言葉をかける。
「祐巳、私のスールになりなさい」
祐巳は私の言葉を五秒間咀嚼して、ようやく本日二度目の叫び声を上げるのだった。
「私が、ですか」
「他に誰がいるのよ。あなたの後ろにあなたと同名の透明人間でもいるなら話はまた変わってくるのだけど」
馬鹿正直に祐巳はわざわざ後ろを向いて、誰もいないかどうかを確かめている。
「誰もいないわよ」
「でも、どうして私なんですか?」
「理由? そうね、敢えて言うならあなたがとても面白いから。後は勘かな」
祐巳は上を向いたり、手をいじってみたりと、どうやって断ろうか考えてるみたいだった。
でも、私が一度狙った獲物を逃すわけがない。
絶対にスールにしてみせる。
「あの!」
「そうだ」
ようやく決意して発した言葉を遮って私は言った。祐巳がその事を忘れているみたいだったから、早いうちに話してあげたほうがいいと思ったからだった。
なんて優しいんだろう。
「もう授業始まるわよ?」
「え? あっ」
「そうね。返事はまた今度でいいから、とりあえず早く教室に行きましょうか?」
私は祐巳に手を差し出した。
祐巳はその手をとろうか迷った挙句、恐る恐る手を伸ばしてきた。私はその手を無理やり引っ張ると、乙女の嗜みなんてまるで無視して走り出した。
「早いですよー」
「授業遅れたくないでしょ」
私は走りながら絶対にこの子を離したくないと思っていた。そして、この手は私をこの日常から抜け出してくれる魔法の手だと確信していた。
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